二次元に逝く

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二次元に逝く:第9回「かあちゃん、僕はげんきです。」Matherシリーズ

二次元に逝く:第9回「かあちゃん、僕はげんきです」Matherシリーズ     

「MOTHER2 ギーグの逆襲」の画像検索結果

あつまれどうぶつの森(あつ森)が発売されて,早いこともう10日間が経ちました。なんと発売から3日時点で180万本が売れ,ポケモン剣盾の136万本やスマブラSPの123万本といったキラーコンテンツを抑え堂々の1位を獲得。私も発売当日,開店前のゲオに並び購入,たぬきちのためにせっせと島の開発に勤しんでいる次第です。今までのどうぶつの森は最初に借金を背負い返済し,家を大きくしてまた借金を繰り返すのが主な目的でやることの代表ですが,今作では島の開発が目的で川を埋め立てたり,崖を切り崩したりと地形の変更が追加され,さらに遊ぶ幅が広がりました。しかし,私達が住む無人島はたぬきちの土地であり私達が,せっせと開発したとして,無人島が発展し価値が上がったところで売りに出す危険もあるので,まだあんしんしてスローライフをおくることはできていません。あれ,たぬきちフリーザ様かな?

さて,みなさんは「エンディングまで、泣くんじゃない」「おとなもこどもも、おねーさんも」というキャッチコピーはご存知でしょうか?このキャッチコピーはゲーム業界で一二を争う知名度を誇るキャッチコピーで有名なゲームは「Mather」「Mather2」のモノ。両方のコピーは糸井重里さんが書いたのかな?と思っていたのですが,前者は一倉宏氏が書いたものだと知ってびっくりしました。

自分的には1よりも2のほうが好きでして........。世の中の流れも2が爆発的にヒットした影響で1も売れたと「ゲームセンターCX」内で糸井重里さんも語っており,自分も順当なんだなとしみじみ思わされました。このコピーから感じたのは,父親が言うような「泣くな」では無く「泣いてもいいんだよ,でも最後までやり抜こう」と言う前向きなメッセージを感じました。

今でこそ、日本のRPGは泣けるモノとなっています。FF10ドラクエ11は5本の指に入るレベルで,その水準も高く実際に泣けるかは別ですが,作り手も感動出来るストーリーを用意していますし,遊び手も感動出来るストーリーを求めていると思います。

そんな時代の先駆けとなったのは,この「Mather」シリーズです。ここでは基本的に「Mather2」のことを指します。

そしてなにより,このゲームの凄さは,何より他のゲームと比べて僕らよりなんです。

「Mather」シリーズは,他のRPGとは異なり主人公が”勇者”でもなければ”光の戦士”でもないただの少年というのが特徴です。マッチョな戦士でもなければスーパーヒーローでもない。旅の仲間も「ともだち」と表現されることが多いです。

作風も西洋ファンタジーでは無く「グーニーズ」や「スタンド・バイ・ミー」のような昔のアメリカ映画のような独特な雰囲気があります。発売された当時,剣と魔法のファンタジーが主流でした。そんな中で現代に近いアメリカのような場所を舞台に,バットやPSI(超能力)を使って少年少女が戦う「Mather」は異彩を放っていました。

現実寄りな世界観はシナリオだけではなくゲームシステムにもしっかり反映されており,セーブするためには無料の黒電話や公衆電話を探して1ドル払わないと出来なかったり,アイテムの出し入れも同じく電話でエスカルゴ運送のデリバリーサービスを受けなければなりません。運送もダンジョン内や特定の場所では出来ず,来たとしても手数料で18ドル支払わなければならないので何かとお金がかかるのです。

また、敵を倒した表現も”~をたおした”といった殺伐としたものではなく、”~はおとなしくなった”や”~はわれにかえった”など,相手の生命は奪っていないことを示す表現になっているところも,なにか生々しく気味の悪さが印象的です。

そんな異色のゲームのため,今では不朽の名作と呼ばれているのですが,発売当時には刺さる人には刺さるカルト的な人気といった感じで本格的に人気がでて普及し始めるのは2が発売されてからでした。。。

 糸井重里さんも,ゲームセンターCXでの対談にて「一番広まったのは2。売れた本数やみんなプレイしたと聞くのも2。1はマザーbeginning(始まり)なんですね。アメリカの人は2しかやってない人が多い。特に」と語る。

マザーには,可愛げのあり面白い世界観なんですが,どこか不気味でゾワッとする不思議な魅力があります。いくつか紹介しましょう。

 

ハッピーハッピー村

作中では、なかまの一人ポーラを助けるために訪れます。ツーソンという街からグレートフル・デッドの谷を越えた先にある森林に囲まれた村で,「世界を青く塗りつぶせば幸せになれる」という無茶苦茶な思想を掲げる,新興宗教ハッピーハッピー教というカルト集団が本拠地としている。この村は彼らの思想を体現するように,家や牛までも青く塗りつぶされており,一部の住人は,この教えに心酔しており正しい行いをしていると思っており残虐な一面をのぞかせている。しかし,ホラーと笑いは紙一重と言うように本作では糸井節が効いており間抜けな一面も覗かせている。一部の信者からは教祖のカーペンダーさんのおはなしはまるで催眠術のように人の心を動かすと言っており,この村には何か秘密があるようだ・・・・

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 徹底とした”ことば”のこだわり

ドラクエやFFにもスライムやももんじゃチョコボモーグリなどといった架空の魔物が敵として出てきますが,Matherシリーズでは少しリアルで親近感のわきやすい名前となっている。こまったおじさんやガミガミおばさんといった実際にいるような敵をバットで戦うわけですが,そんな敵に「たおした」と表現するとバットでボコボコにした凄惨たるイメージを想像してしまうのですが,糸井重里さんは,そこで「われにかえった」「おとなしくなった」と表現することでプレイヤーのイメージを戦いとは違った形にしたのである。そして敵の生物ごとに,このメッセージは変えており,ゾンビだと「土にかえった」人間なら「われにかえった」動物なら「おとなしくなった」ロボットだと「はかいされた」と「倒した」と一辺倒に表すのではなく種族ごとでこだわるのはコピーライターだった糸井重里さんのならではの発想だったのではないでしょうか。

そんなコピーライター糸井重里さんのコピーをいくつかしょうかいします。

WELDGINのコピーが何故か親近感が湧いてくるので好きです。

「マザー2 敵」の画像検索結果

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そして,糸井氏は武器にもこだわっており

1989年発刊のファミコン必勝本という本のインタビュー内で、糸井重里氏は
ことばに対する自身の思いを次のように語っている。


――武器やアイテムなども、現代を舞台にしたことでかなり苦労しませんでしたか?

現代で、しかも子供が持てる武器なんて限られてくるからね。バットを持たせるくらいしかないんですよ。でもバットで敵を殴るっていうのは、その光景を頭に浮かべると陰惨だからね。戦っているイメージを呼び起こしたくないんだ。戦闘なのに、イメージを与えないでくれっていうのは矛盾している。それと、バットにランク付けもできない。木製のバット・コルクバット・金属バットなんてやっても、陰惨さが増すだけだし。特に金属バットはアブナイよね(笑)。

――それは解決できましたか?

しました。つまり、それは言葉で解決できるんです。例えば最初に手に入れるのは「ボロのバット」、次が「普通のバット」、そして「いいバット」「最高のバット」となる。ボロ・普通・いい・最高といったランクの付け方によって、バットの意味をなくしてしまうんです。より強力なバットが欲しいんじゃなくて、単に「いいもの」が欲しいという。

――バットという言葉を使いながら、バットを消してしまったわけですね。

http://www.charapit.com/mother/interview/19890519.htm

 僕もRPGを遊んでいる中で武器装備の強さがパッとわからないときがあります。たとえば,FF5でゲーム中盤あたりでブレイブブレイドとチキンナイフのどちらかを選んで手に入れられるのですが,名前ではブレイブブレイドのほうが強そうですが実際にはチキンナイフのほうが使いやすくて攻撃力が高くなる傾向があり(この2つの武器は逃げた回数で攻撃力が変わる)当時,ちびっこだった私はチキンナイフよりブレイブブレイドのほうが強そーと思ってブレイブブレイドを選んだのですが,逃げまくりだったので攻撃力が下がりまくりで騙された経験があるので,マザーシリーズの武器の名前は分かりやすくキャッチーな名前が多いので好きです。その中でも,かたにちからバットがすきです。この武器はマザー2のネス専用武器で攻撃力が125と作中屈指の攻撃力を誇っているのですが3/4の確率で空振りしてしまうとんでもないロマン砲というじゃじゃ馬仕様なので使ってしまいます。

 

そんな,マザーの制作は,どういうきっかけで行われたのでしょうか?

「MOTHER誕生のウラ話」

 糸井重里さんは喘息持ちで上半身を起こしていないと咳き込んで眠れない時期があったそうで,読書やゲームぐらいしかやることがない為「マリオ」をやることで喘息をしのいでいたそうで絶大な恩義を感じていたそうで,そんなある日,とあるゲームと運命的な出会いをはたします。

それはとある雨の日,糸井さんは何もすることがなく暇を持て余していました。たまたま人からもらっていた,あの国民的なRPGである「ドラゴンクエスト」を”しかたないから「これでもやるかぁ,我慢して」程度で始めたそうで,それもその当時アクションゲームである「マリオ」に救われたため,RPGの将棋みたいな感じがかったるいと感じたそうでどうせつまんねぇだろと思いながらも,始めてみると,なんとつまんなくなったそうでクリアすると「Ⅱ」がプレイしたくなり、

「Ⅰ」を始めた頃は,ちょうどドラクエ2が発売された後だったため会社に置いてあることを思い出した糸井重里さんは雨の中,車を飛ばして取りにいきました。

そして「Ⅱ」のエンドロールをみている内に「僕がこんなにおもしろいって思っているということは面白がらせている人がいる。なぜ俺はゲームを作る仕事をしていないんだ!」と仕事に対するヤキモチを妬いてしまい,そして次に「RPGってどうして剣と魔法じゃないといけないのか?」「どうして選ばれた勇者じゃなければいけないのか?」「父親がいなく喘息持ちでもいいじゃないか」などと,とにかく主人公を弱くしたかったそうで自分ならこうするとアイディアをノートを書き留めていたそうです。

しかし,誰に持ち込めばいいのかコネクションも無く方法もわからないため,そのうち誰かが声をかけてくれないものかと思いながら,コツコツとアイディアをまとめていました。作る手立てもないから実現しようがないなと思い半分あきらめつつ,広告屋として働いていたそんなある日のこと,テレビでファミコンについて語る機会があり,世論はテレビゲームに対しての風当たりが強いなか,かつて「マリオ」に救われたという想いからゲームについて好感的に話したところ,当時の任天堂の社長*1*2が見ていたらしく,糸井重里さんを「中山美穂のときめきハイスクール」というソフトについて,有識者として「中山美穂のトキメキハイスクール」という恋愛ゲームの企画相談に乗ってくれないか?と依頼が舞い込み,京都の任天堂本社に出向くことに,内心では,今まで貯めたアイディアを見せるチャンスと思いながらも,会議に参加するのだが,その会議も糸井氏本人が「何をしたか記憶に無い」と言うほど早く終わり,軽い雑談をしている際に本当は心づもりがあったんですけどと,企画を見せようとした時に宮本茂さんがちょうどやってきた。

どうやってマリオがデザインされたのかを任天堂の宮本茂が語る - GIGAZINE

軽く雑談をするとちょっとウマがあい,その勢いで宮本茂さんに「こんな企画を考えたんですけど,この案でなんとかゲームになりませんかね?そのアイディアでゲームを作ってくれたらぼくは本望です。」と提案した。すると宮本茂さんが「糸井さん、どのくらいやるつもりですか?フルで関わるとかなりしんどいですよ。」と真面目に返された。

しかし,宮本茂さんの”大変なんですよ”と糸井重里さんの”なんか大変なんだろうな”はそもそもレベルが違ったようで,当時のゲーム業界は,残業もあるし,徹夜もある休日出勤当たり前までは思いつきがちですが,それだけではなく限られた容量で出来る限りのことをしなければならず,アイディアが思いついたとしてもそれをプログラミングなどで実現できないかもしれ無い,完成し実装したとしても,それが面白くなるとは限りません。もちろんバグの処理も可能な限り行わければなりません。その魔窟のような裏側が存在します。

しかし,糸井さんが持っていった時は,宮本茂さんが「うぉおお!なんていいアイディアなんだぁ!」と椅子から転がり落ち「こんなんやったら絶対おもろいゲームになる!」という反応をするだろう自信満々な糸井さんの期待を大きく裏切り,宮本茂さんは,それは一旦置いといてといった感じで「作るというのは大変なことなので,うん、あー・・・これをゲームにするんですよね?」と冷静な反応だった。

糸井さんから見れば「アイディアを言うのは簡単なんだけど・・」と感じて褒めてくれないなら,これはつまんないのか?と,まずはアイディアを褒めて欲しかったのだが、宮本茂氏は「・・・ちょっと考えさせてくださいね。進展があったらお知らせしますから。」とその話は終わり,内情や事情も知らない糸井さんからは,いま目の前にいる宮本茂さんがさっきまでの親しい宮本さんには見えず,一変してシビアな奴に見えた。

じゃあもう帰ろうと社交辞令もそこそこに帰ろうとすると,「あっ送らせましょう」と社員が駐車場まで送ってくれて,そこには大きな黒い車があった。

黒い車に乗ったときも良い御身分のハズなのに,宮本茂さんに褒められなかったと言う理由でドンドン悲しくなっていき,帰りの新幹線の中で悲しみではなく無力感により泣いたそうだ。糸井さんは人生であの時ほどの大きな落ち込みはなかったそうだ・・・

あの「マザー」が世に出る2年前のことである。

そうして本職の広告屋さんとしての日常を送っていたある日のこと,糸井重里の元に一本の電話がかかってきた。任天堂の総務部部長の今西さんと言う人からだった。

内容は「糸井さんのゲームを作るスタッフを集めたのであってもらえませんか」とのことであった。宮本さんは着々と編成チームを結成していたのだ。

後に宮本さんに企画の時の話や落ち込んだことを伝えると「そうだったですかね?」と忘れられていたそう。。。

開発拠点は千葉県市川市の一つのアパートを借り切ったところでした。しかし,開発者チームは糸井さんは今日あって終わりだろうと思っていたらしく,「次にまでに,だいたいまとめるので,もう一度提案するために会っていただけないか?」と言われた。

そんなの嫌だと思った糸井さんは「来いとかじゃなくてちゃんとやりますよ。少なくともセリフとストーリーとキャラクターはやるよ。」少なくとも見えているものに関しては行うつもりだったため,そう伝えると開発者チームは「そうだったんですか!そんなに割いてくれるんですか!」驚いた。糸井さんは,もう割く割くといくらでも割くよとむこうがびっくりするほど時間を割いたという。

チームが「ちょっとここなんですけど?」という連絡がくると他の仕事が終わった後でも高速道路を使って遠い道のりを乗り越えすっ飛んで駆けつけ武器の名前を考えたそう。それまでゲーム開発スタッフの中には「ボロのバット」「いいバット」「とびきりのフライパン」といったギャグっぽいネーミングを考えつく「言葉の専門家」がおらず,糸井さんの創る言葉に宮本さんも「ええなぁ!」といってくれた。

マザーでは当時のRPGには無かった斜め歩きの実装と街のアイコン触れると画面がかわるのではなく街を地続きにして広さを表現した。

救世主現る!天才プログラマー岩田聡

そうして「マザー」が完成すると,糸井さんは「2」を作りたくなり,「2を作りたいんです!」と掛け合ってみると許可が降り,正式にチームを結成。いまのポケモンの開発チームと制作することになり,1で少なかったヨーヨーなどの武器を増やした。絵も前作より多く書きアイディアも全部出せたのですがマザー2の開発は行き詰まることになりました。そんな中で開発チームを助けた1人の救世主が現れ,応援に駆けつけてくれることに。その人物は任天堂と言えばこの人「岩田聡」さんでした。

そこで生まれたマザー2で有名なエピソードが・・・

ここままではできないと思います。

岩田社長「いまあるものを活かしながら手直ししていく方法だと2年かかります。イチから作り直していいのであれば,半年でやります」と2年かかる予定のモノが半年に短縮されました。これは彼の持論で「プログラマーはNOと言ってはいけないんです。」というもので詳しく言えば,プログラマーが『できません』と言ったら、せっかくのアイデアを出しにくくなりますからね。プログラミングしやすいことばっかりを考えていたら、枠を超えた素晴らしいアイデアなんて出てきませんから、とにかく実現を目指し無理だった際の代案も考えること」だと言うことも一緒に述べています。

岩田聡 - Wikipedia

 そこで苦楽をともにした戦友のように絆が深まっていました。当時,任天堂神田支店が糸井さんたちの制作チームの開発場所だったのですが,空いている社長室のソファを糸井さんと岩田さんの寝床にして,ホテルプレジデントと名付け泊まり込みの時や帰れないときなどは今日はプレジデント泊まりですねと二人で泊まっていたそうです。帰れる時などは岩田さんは山梨から通勤していたようで山男と同じ電車で帰宅,そんなキツイことをへっちゃらとできてしまう岩田さんのパワーには感服しました。

そうした苦労も実を結び,日本だけではなく海を渡り世界で愛される事になりました。

驚異の12年!難航続きのMOTHER3

www.mother-jp.net/wp/wp-content/uploads/2019/04...

何度も開発中止になったマザー3ですが,当初は3Dで出そうとしていましたが何度も行き詰ってしまい運悪く次世代ハードに移り変わってしまい,これはマザー3がでないと正式に宣言しなければならない時に,ほぼ日に岩田さん,糸井さん,宮本さんの3人で集まり「MOTHER3出ない座談会」を実施。なぜ出ないかなどを話し合い,また落ち着いてきたら出しましょうかと座談会も終わった。

そんなある日,京都で3人でご飯を食べにいく為,車に乗りこんだ時に「マザーなんですけどね、ゲームボーイではダメですかね?もし糸井さんが良ければやれるとおもうんです。」と言われ「本当に出来るなら本気になるよ」と京都の車中で制作が決定。

制作は,ホテルでゲーム合宿を行い,アイディアや思考のすり合わせを行った。セリフは口頭で「だってしょうがないじゃないか」と言うとプログラマーの人がそのまま打ち込み,今度はカエルが返答する番だから「そこはもったいつけてケロ」とちゃんとケロもいれてねと,ドンドン打ち込んでもらっていた。制作の際は笑ったりイイねをくれる聞き手が2人にプログラマーで言葉に矛盾がないかどうか考えて指摘して打ち込む人もいてセリフを考えられる人が2人いることがマザー3制作には助かったと語っている。

「一緒に笑い軽口を叩きあい,これはボツにしましょうかと言い合えるのがなにより楽しかった」

そんな困難を乗り越え続けたおかげでMOTHERシリーズはみんなに愛されるゲームとなったのだと思います。

 

あとがき

MOTHERシリーズを書くにあたって,糸井さんや宮本さんそれに岩田社長を調べていく内に制作段階からMOTHERは始まっていたんじゃないかと思いました。最初,ネスが隕石を見つけテレパシーによってポーラと出会い,天才ジェフと合流して困難に立ち向かう(以下省略)糸井さんがドラクエを見つけ,当時の任天堂の社長の連絡により宮本さんに出会い,天才岩田社長と合流して困難に立ち向かう。マザーシリーズには彼らの苦楽などの人間味が図らずともゲームに染み込んだことが,マザーシリーズの現実味あるコメディチックの作品が生まれたのじゃないのかなと思いました。

いつか出るかわからないですがMOTHER4を楽しみに待っています。

 

 

 「えんがあったら また あうさ シー ユー アゲイン!!
ほんとに カッコイイのは  どっちかな?!」

 

 

*1:任天堂の社長

*2:山内溥(やまうち ひろし)3代目となる任天堂 代表取締役社長。ゲーム&ウォッチファミリーコンピュータなどの電子ゲームで,任天堂を世界的な企業まで育てた。2013年9月19日逝去